やまゆりの姿を置く、江の島ヨットクラブ。

その「一般社団法人 江の島ヨットクラブ」
創立60周年を迎えられ、記念誌が発行されました。

その記念誌に、当会の名誉理事 中村満夫氏の寄稿文が掲載されています。

やまゆり保存会発足の背景を知ることができる
全文をご紹介をさせていただきます。

 

歴史的名艇〈やまゆり〉
NPOで動態保存 100年目指す

名誉理事 中村 満夫 (1976年入会) Mitsuo Nakamura

 

木造帆船〈やまゆり〉は1964年第18回東京オリンピックのために、当時の新進気鋭のヨットデザイナー横山 晃さんが設計、岡本造船で造られました。今年61歳。1962年3月3日運輸省届け出の船舶 カードには、全長13.30m、最大幅3.94m、深さ2.1m、木造のケッチ型帆船、スズキ120馬力ヂーゼルエンジンで速力6ノット(最高9ノット)、航続距離130海里、乗組員6名、最大搭載人員30人とあります。さらに、船主は神奈川県で所属部署として県警葉山署とあり警備艇でした。

この警備艇誕生にまつわるエピソードを少し。江の島にヨットハーバーができ、さあオリンピックという時に国際オリンピック委員会から「ホスト艇の準備は?」と言われ、当時ホスト艇など誰も考えていなかったようで「エッー」となり、しかも予算は使い切っていました。しかしこの時の内山神奈川県知事が「県警に予算があるだろう」と言って建造を指示したことで、警備艇〈やまゆり〉は誕生しました。

大会が終わり〈やまゆり〉は葉山港から江の島ヨットハーバーに移りました。私がヨットを始めた1970年、 大会中は賑やかだったハーバーは人影少なく、聖火台が突堤の端っこにぽつんと立っていました。しかも緑色の聖火が燃えている!よく見たら炎の形に伸びたぺんぺん草でした。今はモニュメントとなっている聖火台ですが、解体され古物商に売られて屑鉄として溶かされる直前で回収されたものです。

オリンピックのホストクラブとして発足したEYCは1970年に〈やまゆり〉をクラブのフラグシップにしようと県から払い下げを受けました。以来〈やまゆり〉は歴代船長の整備と管理のもと、クラブメンバーを乗せて相模湾や伊豆諸島にその優雅な姿を見せて走りました。しかし〈やまゆり〉は、木造船の宿命で時間の 経過とともに海水や雨水が染み込んで腐食するのは避けられません。腐食する、修理するの繰り返しとなります。一方EYCもメンバーの高齢化や死去に伴い、またリーマンショック時の設立準備金の取り崩しなどもあって苦しい運営の時代を迎えました。クラブの運営経費の中で〈やまゆり〉の支出は大きく、「金食い虫」などと陰口をたたかれる状況でした。

1989年の運営艇管理委員会の席上「維持しきれないので廃船に」との声が上がり正に存続の危機を迎えました。運営艇担当の私が「旗艦を見捨てるのか! 歴史的木造帆船だ、何としても存続したい!」と言うと「それならあなたが何とかしたら」と言われました。確かに大変な事業だが、世の中のヨットを愛する人々、木造船を愛する人々、海を愛する人々に呼びかけて支えてもらおうと考えました。「うまくいくはずがない」との声もありましたが、1990年、個人加盟の組織「やまゆり倶楽部」を立ち上げました。それまでに「EYCクルーザー体験セーリング」を〈ミロス〉で取り組み好評を得ていましたので成功の感触も得ていました。

さて周囲の予想に反し「やまゆり 倶楽部」は会員が増え、設立の05年は59名、06年113名、そして08 年に母体のEYCの会員数を超える規模になりました。活動範囲も、小学校の課外授業への参加や花火 大会、三崎や大島へのクルーズと体験セーリングに多くの参加者があり大好評を得て会員になる方も増えました。16年には会員No.582番、実質250名に達しました。一方で老体に鞭打っての運航は、機関の損傷やダウン、船体・装備の損傷も生じましたが、何とか乗り切ってきました。

他方、運営する側の高齢化も問題となってきました。〈やまゆり〉は 保っても我々が保たない。その時〈やまゆり〉はどうなるか……。論議の末、組織として継続性を持ったものにする、社会的な認知を得る、との結論を得て2016年NPO法人に改組しました。出発に際し「やま ゆり倶楽部」発足時からの会員さんから多大な支援を得ました。二代目エンジンの換装に際してはNPO法人の活動が認められて政策金融公庫から融資を受けることができ、その返済も完済。

そして2016年10月1日、EYC青山会長の英断で〈やまゆり〉の所有権は 「NPO法人帆船やまゆり保存会」に移行、係留場所もEYCが持つ水面を〈やまゆり〉に限り使用できることとなりました。

順風満帆に見えた保存会活動でしたが、2000年初頭から始まったコロナウイルスのパンデミックにより、会の中心的活動である体験セーリングができなくなり、約3年にわたり新たな仲間づくりができなくなりました。さらに昨年度はマストの重大な損傷が見つかりヒノキなど機材の確保に悩まされ、工事終了は昨年秋までずれ込みました。会員親睦のための例会も自粛に追い込まれて会員数も大幅な減少となり財政の危機的状況が続いています。

2023年に入ったところでコロナの勢いがやや下火になり、いつまでも縮こまってはいられない「ウイズコロナの考えに立ち活動を再開しよう」となりました。体験セーリングの再開は多くの皆さんから「まってました!」と歓迎されコロナ対策を行い自己責任の上で活動展開する!として順調に開始されました。〈やまゆり〉と共に取り組みを広げてゆきたいと決意しています。

さて、1945年無謀な戦の果てに日本は敗北し国の主権をすべて失い連合国の占領下となりました。国土は焦土と化し山野も荒れて生産力は失われ、食糧難の中で生きるのが精いっぱいの生活でした。復興は遅々として進みませんでしたが何とか生き永らえた1951年、サンフランシスコ講和条約締結により主権回復となり、国際的に国家として認められました。その後は平和憲法のもと経済復興はすすみ生活は回復してきましたが、世界の日本を見る目は厳しいものがありました。1956年日本は国連加盟が認めら れようやく先進国として国際的に認められることになりました。さらに IMF8条国となりOECDにも加盟。敗戦国の厳しい状況の中で下を向いていた国民の気持ちがようやく前を向いた瞬間でした。1964年には世界に誇る新幹線が開業、1970年には万博も行われて世界中から多くの人が訪れようやく国際社会に復帰できたと感じられたのです。戦前に予定されたオリンピックが24年たって開催できる!この時の国民の気持ちはとても晴れやかなものでした。そのオリンピックで江の島がヨット会場となり湘南港が作 られ大会・VIP艇として〈やまゆり〉は造られ活躍しました。いわば戦後史の一つの証人でもあります。

当時日本のヨット人口は全国で5桁の数字にはなっていなかったでしょう。国産艇のほとんどが19~21ftという状況の中で、日本の帆船づくりの威信をかけて岡本造船が作った文化遺産、技術遺産でもあり乗り心地は万人の認めるところです。

現在の日本社会は新自由主義とやらで、文化遺産を大切にせず、どんどん壊してしまう風潮が蔓延しています。これにあえて抗って海とヨットを愛する人々の力を集め「動態保存」を進める、これが「帆船やまゆり保存会」です。皆さん、ぜひ参加してください♪